私が、願ったのが自立した生徒の育成であり、そのためにも受身の授業から脱却しなければと考えていたのですが、そのための道筋をどうしても見つけることができないでいました。全ての生徒を学びの土俵に載せることができるような、興味のある教材の開発、皆が心を躍らすような学習問題を求め続けて来ました。しかし、どんなに時間をかけ、必死にやってもそこへの展望は開けて来ませんでした。自分の力量をもっとつけていかなければ、もっともっと努力しなければとは思うのですが、つらいものがありました。生徒に対して申し訳ないという気持ちをぬぐい去れない日々が続いたのです。
私にとって、教科の授業時間の中で、「学級づくり、人間関係づくり」という発想は新鮮でした。自分自身にとって、何のために学習するのかが理解できなかったり、どうしてそういう方法で行う必要があるのかが分からなかったりした学習には興味を持てずに不適応しただけでなく、それを強いる教師に対して不信感さえ持ったことを覚えています。でも不思議と時間を忘れて物事に取り組める場面もありました。今にして思うのは、自分から求めて取り組んだことには比較的長続きしたように思います。でもそれらの多くは最初から興味を持てたことであったのです。でもそうでないこともありました。例えば、自分では全くだめだと思っていたことに音楽の楽器演奏がありました。4年生で縦笛(リコーダー)が配られ、家に持ってかえる途中のことでした。隣の家のお兄さんに、リコーダーの指使いを教わった事をきっかけにコーダーだけはできる用意なりました。それまではハーモニカ(サカホン)も木琴も自分にはできっこない。木琴のばちで交互左右にたたいて、「ドレミファソラシド」などできないと思いこんでいたのでした。もちろん一曲も曲にはなりませんでした。正に「音が苦」であったのです。このことをきっかけに少しずつできることが多くなっていったように思います。
本気で頑張ればたいがいのことは何とかなると考えられるようになったのは教員になってからです。
もしかしたら自立した生徒に育てることができるかもしれないと思えたのは教員生活35年目で知ることとなった『学び合い』であったのです。教師がよかれと思うことが、必ずしも全ての生徒にあてはまらないのは、私の能力が足りないのでも、私の努力が足りないのでもないと思えるようになってきたのです。原因はもっと別のところにあると思えるようになったのです。
3月6日(日)は、第1回『学び合い』川中島の会ですし、5日(土)の夜はその前夜祭(懇親会)です。大いに語り合いましょう。